Chansons de geste~La Chanson de roland~

そは――騎士達の物語。そして――史詩。




ローランの歌


コルドル


 細い雲の靡く東の空が白々と明けゆく。
 ミサの祭司を命じられた大司教テュルパンは静かに聖書を開いた。この若い聖職者の歳に見合わぬ出世は、その家柄による影響も大きい。しかし最たる理由は、容姿と品行の良さと壮年の先輩に負けず劣らぬ博識と、美声、である。耳に心地よい低めの声は人の心を揺さぶる響きを持っていた。聖書の朗読や説教などは、是非にと請われることも多かった。その上、武芸の腕も立つ。
 テュルパンの読み上げる聖書の一節に、皆が耳を傾ける。
 かつて熱烈な異教徒であり、主の召命を受けて改宗した聖パウロの事を記した「使徒行伝」の一節であった。
 まだほの暗い光の中で、テュルパンの声は響く。
「さて、サウロは主の弟子たちに対する脅迫と虐殺の意気も高く大祭司のもとに行き、ダマスカスの諸会堂あての手紙を求めた。この道に属する者を見つけたなら、老若男女問わず捕縛し、エルサレムに連行するためであった。旅程を経てダマスカスに近づいた時、突然、天からの光が彼の周りを照らした。彼は地に打ち倒され「サウロ、サウロ、何故我を迫害するか」と自分に問う声を聞いた。
 彼は言った、「主よ、あなたはどなたですか」。
 主は言った、「わたしはイエス、あなたが迫害している者だ。だが、立ち上がり、町に入りなさい。そうすれば、あなたのなすべきことが告げられるだろう」
 彼と一緒に旅をしていた人々は、何も言えずに立っていた。響きは聞こえたが、だれも見えなかったからである。サウロは地面から起き上がったが、目を開いても何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスカスに連れて行った。彼は三日のあいだ目が見えず、食べることも飲むこともしなかった」
 その後、主イエスはアナニアという名の弟子に啓示を与えたという。アナニアはキリスト教徒を迫害したサウロを助けよという主の御言葉に反論を試みたが、主はアナニアに重ねてサウロに会うようにと告げた。
 視力を失ったサウロはアナニアに出会い、その奇蹟によって視力を取り戻し、洗礼を受け、改宗を宣言した――。
 テュルパンは、ゆっくりと聖書を閉じて参列した兵士達を見つめた。敬虔なクリスチャン達は憧憬と信頼を込めた視線をノートルダムの司教に集める。
「主は迫害者に対し酷烈な運命と赦しと機会をお与えになるでしょう。異教を信ずる輩に対してもその御手を差し延べ改心をお認めになる一方で、我らはアナニアのような主の御手の代行者として選ばれているのです。
 コルドルは未だ、平穏を取り戻してはいませんが、皆が手を取り合い、改宗者を赦し平穏を取り戻すために協力することを望むのです」
 イコンを掲げた異教の聖堂の中に、テュルパンの声は異教の澱を祓うような清浄さで響いてゆく。その余韻が消えるのを待ち、テュルパン大司教は両の手を窓から射し込む朝日に向けて差し延べた。剣など似合わぬテュルパンのてが光を受けて浮き上がるように白く光る。
「聖歌を」
 従軍司祭達が聖歌を奏で始めた。
 歌われるのがパイプオルガンを要したノートルダム大聖堂であれば、見事なまでの和声が荘厳な響きを演出したであろう。しかし、そうでなくともこの日の聖歌は一万を有に超える騎士と兵士の声で重厚に響き渡った。

「主イエスの支配は世界にあまねく
 月陽照らすごとみ国は広がる
 主イエスに向かいし祈りと賛美は
 朝ごとたなびくくしき香のごとし
 すべてのくにたみ主の愛をうたい
 おさな子の声は主のみ名歓ぶ
 造られしものよわが君あがめよ
 み使いの歌に声あわせアーメン」

 聖歌の響きの中、聖体拝領が粛々と行われていく。パンとワインを従軍司祭達の手により与えられた者達は胸の前で十字を切り、神と聖霊とイエスの恵みに感謝を示した。わずかな恵みは信仰と共に空腹を満たし、フランス人達に活力を与えた。
 ミサを終え、テュルパンが壇上を辞すると、まず、城下での勤めのある騎士や伝道をする従軍司祭が聖堂を後にした。
 ついで、聖堂は休息を命じられた兵士達と、騎士達を見送り、静けさを取り戻した。
 残るのは、テュルパン司教麾下の数人の騎士と司祭ばかり。
 十二の臣将達は連れだって、果樹園の下を歩いていく。
 幾人かは昨日のサラセン人の来訪について立ち会っていたし、幾人かは城下での出来事をつぶさに同僚達に身振りを交えて、少し大げさ目に話す。あとは、個人的な事をたがいにからかいあったり、噂しあったり……いつもと変わらぬ様子を見せていた。
 かれらはそのまま、城の中庭……シャルルがこの城で最も気に入った見事な枝振りを誇る松の木陰へと向かった。諸将は城下での勤めの前に、戦評定のために召集を受けていたのである。
 シャルル王はたとえ些細な決定であっても、昵近のこれらの臣下達にその意見を諮り、決して独断では決定しない。独裁はシャルルの望むところではなかったし、充分に議論しようとする態度は王としての美点でもあった。
 皇帝は、松の根元に玉座を置き、諸将と向き合った。
 シャルルの直近から参謀役のネーム大公、デンマルクのオジエ公、ランス大聖堂ノートルダムのテュルパン司教、老武者の二つ名に相応しく輝くような白い髭を蓄えたノルマンジー公リシャール、そして、その甥であり側近でもあるアンリが並んだ。
 さらに、頬骨が高くひとめでガスコーニュ人だと判る精悍な容貌の伯爵アスラン、ノートル・ダム大聖堂を擁するランスの貴族チボーと従弟のミロン、そして、ジュランとジュリエが並んでいた。ローランとオリヴィエも居る。
 ほかに、千人を超えるフランス軍の騎士たちも、立ち去らずにその場に残っていた。尤も、戦評定に直接発言できるわけではなかったが、それでも、サラゴッサを陥とすか撤退してフランスに帰れるかが決まる重要な局面に、立ち合いたくない者など居なかった。
 無論――のちに重大な裏切りをおこなう――ガヌロン卿も御前に近い場所に控える。
 やがてときが至りシャルル王はゆっくりと立ち上がり宣言した。
「諸将よ、戦評定を始める」
 このときには誰もが予想していなかった。
 この戦評定がフランス軍に永劫に癒えぬ遺恨を残すことも、夜明けの中に闇よりなお暗き陰謀が芽を吹くことも、誰にも想像すらできないでいた。シャルルでさえ、敵の恭順の態度に冷静さを失っていたといえる。その胸騒ぎはこれより与えられる悲劇ではなく、ブランカンドランが両手に捧げ持ってきた「サラゴッサの降伏」に対する高揚だと思い違えていた。
 ……そう、誰もが。
 シャルルは席を並べた諸将の準備が整うのを待ち、おもむろに立ち上がる。
 朝の挨拶もそこそこに世間話などをひとことふたこと交わしていた騎士達は、口を閉じた。シャルルの従者のひとりが、軽やかな鐘を鳴らし、評定の幕開けを告げる。その響きが消えたとき、おもむろに立ち上がった帝王は控える諸将達を睥睨した。
「サラゴッサのマルシルが、昨日、十人の使者を送ってきた。」
 先の、サラセン人達の来訪の次第である。
「己が宝物庫を開き、幾多の財を貢ぎと賠償として差し出すという。目録にはイスパニアの至宝や高額な金貨が提示してある」
 熊、獅子、猟犬など金の鎖にあまた繋ぎ、駱駝七百頭、蒼鷹千羽、アラビア金貨を騾馬四百頭に満載し、さらに牡牛二頭立ての大輜重車を五十余頭……無論、撤退用の輜重に加え、イスパニア金貨を満載する。
 猛々しい雄熊や獅子などは狩りや闘技の標的として貴族達は喜んだ。イスパンヤの猟犬はや鷹は猛々しく速く勇敢であり、これも重宝される。駱駝はアラビアへの出兵には欠かせず、馬力はもとより気候の変化に対しても強靱であった。さらに、おびただしい金貨の数はサラゴッサの富の豊かさと、マルシルの権力の大きさを示す。それらを贈るということは、すべてを手放すと言うに等しいのではないかという感想を持つ者も少なくなかった。
 ざわめきが収まるのを待ち、皇帝は再び口を開いた。
「されど、これを以てイスパンヤの統治はさておき、まずはフランスへの凱旋を勧めておる。決断すれば、マルシルは我が跡を慕いエクスの宮殿まで参じ、マホメットを捨てキリスト教に帰依し洗礼を受けると申す。
 しかし、マルシルの真意がわからぬ。
 赤心よりの言葉とあれど、洗礼ののち、いまだ治めきれぬこの地を我が手より賜り我が名の下にイスパンヤを治めるという。」
 それは、宴会の給仕に混じらせていた騎士が漏れ聞いた事実である。
 昨日のブランカンドランとシャルル王の会談に立ち会った者は、洗礼を受けたのちのサラゴッサ側の画策を直接耳にしたわけではない。憶測ではないかと思う者もいた。降伏の申し入れに、偽りや詐欺があってはならぬ。会談の場で、イスパンヤの面々は包み隠さずすべてを口にしなければならなかったはずである。
 シャルルのまえに跪き使者達が願い請うたのは、フランス軍の撤退とマルシルの洗礼のみであった。ゆえに、王にマルシルの思惑を告げた騎士の言葉を嘘と断ずることはできずとも、鵜呑みにはできず、口を噤んだ。
 王の言葉こそが正しいと思うものは、「油断は禁物だ」と口々に声を上げた。
 その筆頭が、辺彊伯である。ローランは直感的に「やばい」と感じていた。
 皆が隣に座る諸将と視線をかわし、意見を求めあう中で、ローランだけが許しを得ずに立ち上がり、王を見上げた。
「マルシルなど信じては災いの元。けっして信じてはなりません。
 イスパンヤ攻略を初めてより七年、おれは陛下のために、ノープルとコンミーブルをまず制圧しました。ヴァルテルヌとピーヌをマルシルより毟り取り、バラグエ、テュエール、セジーリを占領しました。その間、マルシルは汚い裏切りを繰り返してきた」
 シャルル王の若い甥は、マルシルを強い口調で断罪した。それを思い出すだけで、腹の中が煮えたぎりそうな憤りと遺恨が再燃する。それでも、皆に思い出させねばならなかった。
 あの悲劇。
「多くの都市とパンプリェヌの攻略ののち、このたびのようにマルシルは十五人の異教徒を選りすぐり、陛下の御前へと送り込んできました。お忘れにならないでください」
 あのとき。このたびと同じように使者達はオリーブの小枝を掲げ、このたびと同じように美しい騾馬を駆って、同じように陥ちたパンプリェヌに現れ、同じような口上を述べ、シャルル王とフランスに対して恭順を示した。
 無論、その折にもシャルル王は戦評定を開き、多くのフランス人に諮問を請うた。しかし、パンプリュヌの攻略とマルシルの降伏に浮き足立った軍議は重きを欠き、それほどの議論も時間もかけずに、裁定された。
 結果。
 フランス側は、降伏の受け入れを告げる使者として、バザンとバジール、両伯爵をマルシルの元に向かわせた。
「そして、おれたちはラングルの勇士をふたりながらにして失ったのです。マルシルはふたりを捕らえ、アルチューリの山中で無惨に惨殺し、裏切りの本性を示したではありませんか」
ローランは今でも、時折、勇敢だった彼らの去り際の笑顔を忘れない。大切な友を裏切りと詐術に奪われたことを思えば、ギリギリと奥歯を鳴らしたくなる。
「イスパンヤ攻略は目前です。すでに残るはサラゴッサのマルシルのみであれば、戦を続けるべきです。麾下の軍勢をサラゴッサへさし向け、全軍全力をあげて包囲し、ふたりの……いや、これまでの度重なる奸計にてヤツに殺された友らの仇を討つのです」
 ローランの語気は荒い。若さゆえと言い切れぬ激しさはこの若者の魅力でもあり、欠点でもあった。復讐という感情優先の発言に説得力は、ない。
 たとえ、説得力を発揮したとしても、そこにある計略は力押し以外のなにものでもなく、シャルル王の肯首はなかった。
 思案の余地はある。たしかに、サラゴッサの城を落とせば遠征の目的は果たされる。しかし、それには綿密な策略が不可欠となるのだ。
 だれも、それをローランに求める事ができないことを解っている。
 皇帝は、肯かぬままローランに否定も肯定も示さずに静かに口髭を撫で、豊かな髭をしごき、思案に表情を曇らせた。他の諸将も、イスパンヤ攻略の悲願を共有するだけに、軽々と発言することができぬ。ローランの進言を、肯定してしまえばフランス軍の損害はいかほどになるかも判らない。対して、否定してしまえば、この遠征は画竜点睛を欠く。万が一、マルシルが再び奸計を案じているならば……再び、友を失う。
 膠着した空気が場内を満たそうとしたとき、ローランの向かい側でガヌロンが立ち上がった。ガヌロンは、ローランの義父である。ローランの父が逝去したのち、シャルル王は姉のベルタを王の諮問官であるガヌロンに娶らせた。ベルタについて囁かれていたローランの父との駆け落ちや、ローランの出生に関わるスキャンダルを掻き消すためである。思惑通り、美男で勇敢しかも知略に優れた宮廷人と、王族の婚姻はいっときの噂を吹き消すほどに話題を総浚えにし、いつの間にかスキャンダルは立ち消えてしまった。
 王は満足したかも知れぬが、ガヌロンはどうだったのだろう?まだ美しいとはいえ、スキャンダラスな寡婦を娶ることになり、さらに彼女には息子までいる。ガヌロンの息子と可愛がるにはあまりにも少年は成長し思春期を迎えようとしていた。少年の方も、周囲から忘れ去られたように捨て置かれ、唯一可愛がるのは血の繋がった叔父のみであれば。
「分別無く、感情にまかせて王のためにならぬ事を口走るような若輩の言葉に、惑わされぬよう」
 ガヌロンは、ローランの方をチラリとも見なかった。
「マルシルは陛下の臣下となり、陛下の御名を以てイスパンヤを平定し、主の御教えを受けたいと、手を合わせて懇願しているのです。一国の王が頭を下げて願う申し出を、無下に退けよと進言するような者は、外交のなんたるか政のなんたるかを理解しておらぬ若輩未熟と言わざるを得ません。サラゴッサを討ったとしても、どれほどの損害が出るかも考えておらぬ。損害とはすなわち、諸将や兵士達のいのちに他ならない。他人のいのちに思いを巡らすことのできぬような考えの足りぬうつけ者の思い上がった進言はお聞き召されるな。感情的な用兵ではなく、わたしは思慮ある綿密な策を取るべきであると思います」
 ローランとガヌロンの間に横たわる距離は、あまりに遠い。ローランは武将として、ガヌロンは諮問官としての立場を貫く。その冷えた間隙に親子という立場があるからこそ、誰もがシャルル王の寵愛を受けるローランに見せるような遠慮を、ガヌロンは見せなかった。
 ガヌロンの悪意かと思われるほどのこの言い様を、ローランは黙って聞いている。このふたりの関係の微妙さを知らぬ者は、気性の荒いローランがいつ剣を抜くかも知れぬとハラハラと落ち着かぬまま見守った。
 わずかな間をおいて、ローランが立ち上がらないことを確かめた将のひとりが立ち上がった。バヴァリア大公ネームである。宮廷随一と呼ばれた武人のひとりである。義に篤く信頼に足る人物で、シャルル王の相談役として常に側に仕える。
「ガヌロン伯の言葉は道理にかなっており、もっともなことはであると思います。このコルドルの陥落にて、マルシル王の敗戦は極まったも同然。陛下はマルシルの領じる城をことごとく攻め陥とし、城壁を石弩で打ち破り、あるいは焼亡、あるいは御手によりキリストの教えに服し降伏させました。かの者の手強い部下も多くが敗亡、軍隊は壊滅、マルシルにはすでに降伏以外の手は残されていないがゆえに、知将ブランカンドランをさし向けてきたと思われます。私見を言わせていただけるなら、これ以上、サラゴッサを苛烈に攻めることは、ちと、罪かと思いますな。このたびの申し出は、マルシルの再起に必要な財産宝物の供出の上に、優秀な人材を人質として差し出し、帰順を示そうとしているものであります。此度の戦、ここらで止めるのもご英断かと考えます」
「英断、か」
 ネームはマルシルが差し出そうとしているものとその現実を示して、ガヌロンに同意して見せた。ローランは応答の使者を害されることを案じているが、ネームは、先のブランカンドランの口上より「それはない」と確信していた。ブランカンドランという男は質実剛健といった風体で、小手先の詐術を弄するような小物ではない。そして、マルシルはこの期に及んでそんな小物をよこすほどの余裕は持っていない。
 無論、フランスの閣僚となったマルシルをイスパンヤに封じることを望むだろう。それならばそれでよい。再びこの地がサラセンの土地となり果てても、マルシルのフランスの伯という立場は失われないため再び取り上げて処断することは、今強行にサラゴッサを攻めるよりは容易になるのである。
 顧問官ネームの意見に、多くのフランス人は肯いた。
 肝要なのは、マルシルをこの国から引き剥がすことなのである。
 ガヌロンがなんの策も示さずに異見だけ述べたことにむっつりとしていたローランも、ようやく、首を縦に振った。

第4話
第3話