Chansons de geste~La Chanson de roland~

そは――騎士達の物語。そして――史詩。




ローランの歌


サラゴッサ


 サラゴッサの地形は見事な天然の要害である。背後に山を背負い、城を基点とした扇形の地形がエィブロー河に沿って広がっている。地形を利用した城塞都市は、敵の侵攻を見事に阻む。さらにエイブロー河の上流にはサラゴッサの補給線となるべき都市がいくつも存在している。その全てが今やシャルル王の手中とはいえ、密かにサラゴッサに通じている者も少なくはない。自由商人達は、その最たる者。彼らを、別名――盗賊と呼ぶ。全てを取り締まる事は、いかな賢王でも難しい。まして、法外にある彼らは。
 エィブロー河の恵みは半永久的な籠城を可能にする。
 その豊かさを反映するような王宮の空中庭園は、豊かな商業都市を一望できた。木陰にしつらえた贅沢な大理石の玉座に、豪奢な衣装の男の姿があった。マルシル王のゆったりとした衣装の下には、鈍色の甲冑の胸当てが見える。
 彼は、小姓の合図をちらりと見ると腰を上げ、ゆっくりと庭園を囲む石垣の方へと歩いた。腰程までの低い石壁の縁に手を掛けると、わっと声が挙がる。彼の足元には、さらに扇形に三段の階段状になった庭園の中、二万を越える軍隊が待機していた。一番上の庭園には、位ある諸侯が顔を並べている。中段には騎士達、下段には兵士達が居並ぶ。
「諸将よ、あれを見よ」
 マルシルが指さす先に、黒煙が上がっている。コルドルまでの街道で、シャルルに従うことを最後まで拒んだのは、ソーアの町である。二日前に落ちてから今まで、兵士達の目にはずっとそれが目に焼き付いていた。コルドルは今、包囲され籠城を余儀なくされている。補給線が絶たれた今、落城するのは目前。
「何という災いだろう。悪神に仕えるシャルルは我らの国を土足で踏みにじり、我らを攻め滅ぼそうとしているのだ。我らの戦力は、これほどの軍を持ちながら彼奴には及ばん。口惜しいことに、撃って出て彼らを破るにも、あまりに手薄いのだ」
 マルシルの言葉に込められたシャルル王への呪詛は、兵士達の心を深く捉えていた。悔しさを隠そうともしない兵士達は、じっとマルシル王の言葉に聞き入っている。
「彼らに勝つために残る手は少ない。私を……我らがサラゴッサを、この国の民を死と辱めより救える者は、名乗り出るがいい」
 しん……と庭園中が静まり返った。誰がそれだけの智恵と剛胆さを持つか、息を殺して待っている。誰もが諦めてはいなかったが、かといって勝てる策を持つ者もなかった――否、静かな庭園の上段で、立ち上がった者がいた。
 ブランカンドラン――深き谷ヴァル・フォンドの領主である。
「申し上げてもよろしいか」
「申せ」
「では」
 ブランカンドランは、しばし俯き、そして顔を上げた。
「シャルルのもとに使いを出し、御帰順を申し入れ、真の忠誠をお見せなさい」
 そこまで一気に言って、ブランカンドランはマルシル王を見上げた。
 諸将の顔色が変わる。かの傲慢な神の信徒に使いを遣るなど、しかも、その足元に跪けとは、言語道断である。ブランカンドランを引きずり倒そうと立ち上がる者まで現れた。だが、剛胆の名高い彼は一歩も譲ろうとしなかった。。
 ブランカンドランにとっては、これは賭であった。もしも、マルシル王が彼の話を聞く耳を持たなければこのままきびすを返し領地まで帰ろうとさえ思っていた。今、この背水の陣での鈍い判断は、幾千の領民の命をも危険にさらすだろう。
――マルシル王……、ご英断を。
 祈るような気持ちで、ブランカンドランは待った。待つ時間のなんと長いことか、一分が何時間にも感じる。
 やがて、マルシル王は口を開いた。
「諸将よ、控えい」
 そうして、はしばみ色の抜け目ない瞳が、ブランカンドランを見つめる。
「ブランカンドラン、何を企んでいる」
「さて」
 ブランカンドランは、老獪な狼のような灰色の目を挑むように王に向け直した。
「マルシル王、如何なさる」
「まだお前の献策は終わってはいないな。聞かせるがいい――この庭に集まった百の諸将に、二万の兵にな」
「では」
 この時点で、ブランカンドランを止める者はいなくなった。彼には何らかの考えがある。
「この城の財宝はいかほどでしょうか。出せる限りの財宝を彼奴等に送りつけるのです。シャルルは戦利品を以て傭兵に十分な給金を与えるでしょう。それでも余りある戦利品が彼等の元には残ります。さらに人質を送るなどの後押しをすれば、シャルルをすんなりとエックス・ラ・シャペルに帰すこともできましょう」
「我が宝物庫を開けとな」
 マルシル王がブランカンドランを見る目が俄に剣呑な色を見せる。
「そうです」
 ブランカンドランはうなづいた。
「そのうえに、陛下はシャルルに附いてセント・ミシェルのミサにご列席し名実ともにシャルルの御家来に成られますよう……」
 マルシル王の瞳に、明白な怒りが浮かぶ。それでもブランカンドランは進言を辞めなかった。むしろ声高に、激説する。
「人質を申しつけられれば、十人でも二十人でもお送りなさい。彼が納得するまで、延々と。妻や子までも送るのです。殺される可能性は十中八九。それでも、我らの誇りイスパンヤの地を失った上に、乞食や奴隷と成り下がるよりははるかにましでしょう」
「そのような策、策ではないわ!」
 激昂が頂点に達した王は、ブランカンドランの頭上から怒鳴りつけた。ブランカンドランはびくともせず、さらに王を見続ける。先ほどの激しさを微塵も感じさせぬ、揺るがぬ静けさで、だが、よく通る声で、心に語りかける。
「彼奴等の信用を得るのです。信用させて撤退させてから、取り戻せばよい」
「……なに?」
 取り戻せばよい?どうやって?
 一瞬にして、マルシル王の頭の中は冴えた。
 シャルルをエックスの――大聖堂を中心とした七つの宮殿に立ち戻らせ、後方にあるこのイスパンヤを信用させ、そして……だが、そううまくいくものであろうか。
 マルシル王は目を上げた。ブランカンドランの視線と出くわし、そのまま眼で問いかける。
――我が保てる財のその殆どを費やしてこれが成功しなかったなら如何する。
 ブランカンドランは自慢の髭を撫でた。
「私の、この右手とこの胸の上の髭にかけて、我らの成功を保証いたしましょう。
 我らの叛意が無くなれば、フランク方の軍勢はたちどころに剣を納め、彼らの土地へ引き上げるでしょう。長き戦いにとりあえずピリオドが打たれ、シャルルは勝利を祝い、守護聖霊、サン・ミシェルの大礼祭をおこないます。
 総ての事が成った暁には、最後まで抵抗いたしましたイスパンヤの人質達は首を切られるでしょう。シャルル王は容赦のない方ゆえ」
 ブランカンドランの献策にも、容赦はない。殺されると判っていて、妻を、子を、人質に送るなど、あまりといえばあまりの仕様。
 だが、ブランカンドランが自らをも納得させるために声高に言った言葉を涙を流さずに聞いた者はなかった。すなわち――。
「我らがまほろばイスパンヤを失い、不幸な目に遭い、不自由を忍びまするよりは――誇りも、自由も、我らが我らであることさえ失う事を思えば、何かを犠牲にすることも厭うに及びません」 
 彼に、異論を唱える者はなかった。
 戦評定はブランカンドランの最後の一言で決まり、マルシル王は十人の勇猛な――そして誰よりも忠実な臣下達を謁見室に改めて呼び寄せた。


 謁見室には、豪奢な垂れ幕が壁面を装飾し、毛足の長い絨毯が床を埋めていた。サラゴッサの栄光がそこに集約されたような室内に、マルシル王と住人の臣下達が居並ぶ。クララン、エスタマリン、ユードロパン、プリアモン、ガルラン、マシネル、マユー、ジョユネル、マルビアン、ブランカンドラン。
 クラランは既にローランにより攻略されたバラグエの御曹司だった。エスタマリンとユードロパンは、古くからの戦友。共に背中を守り合ってきた仲だった。プリアモンと、髭武者のガルラン、彼等はその髭を二つ名として持つだけあって、戦陣内で男の中の男と称され、勇猛さとその腕の剛さに並ぶ者はなかった。マユーは古くからのサラゴサ王の家臣で、その信も篤い。マシネルはマユーの甥で、後継者とも言われていた。
 ジョユネルとマルビアンは新参の家臣。だが、マルシル王は彼等を買っていた。マルビアンは特に、遠国よりわざわざ参じた客将だった。
 そしてブランカンドランは……言及すべくもないだろう。
 マルシル王は、彼等の顔を一人ずつ見渡すと、手を差し招いた。
「貴殿らには、シャルルマーニュの元へ赴いて貰う。和平の証として、橄欖の小枝を携えて。降伏を申し出るのだ。そして、卿らの知謀を以て和議を整えよ。無事に帰城の暁には金銀はもとより、所領も与えよう」
 その言葉で、半数が深く頭を下げた。だが、クラランとブランカンドランは、やや心情を異にする。ブランカンドランは領地や金銀を求めはしない。求めるのはただ、マルシル王の赤心だけだった。
「ブランカンドラン」
 マルシル王は、重厚な声を響かせた。
「はっ」
 ブランカンドランは頭を垂れる。マルシル王は静かに告げる。
「この策は卿の献策によるもの。私に代わり卿が、シャルルマーニュにこう申せ。
『皇帝の御奉る神に免じて、私どもをお許し下され。一月と立たぬ間に千人の臣下を引き連れ、エクスの御聖堂まで陛下の御跡を慕いゆきましょう。
 そして、キリスト教へと改宗し、心実ともに陛下の臣下となりましょう。
 またもし……人質が要るとなれば、信を得られるまで差し出す所存。我らの赤心を汲み取って下され』とな」
 マルシル王の強い語気に、ブランカンドランは敬意を以て「御意に」と応えた。
 マルシル王は、十臣下の為に最上級の騾馬を用意した。シュアチーリの国王が献じた至宝である。金銀で飾られた馬具を付けると一層、しろさが引き立つ美しい騾馬であった。
 マルシル王の意を受けた十人は、手に橄欖の小枝を携え、シャルルの元へと向かった。

第3話
第1話