Chansons de geste ~La Canzone di Guglielmo~

そは――騎士達の物語。そして――史詩。



ギョームの歌


46


「ヴィヴィアン殿、主にかけて、我々はどうしたものでしょう?
彼は答えた。「もちろん彼らに勝つのだ」。
神に祈ろう。我々に助けを送ってくれるように。
我が主ギョームを私のもとに送ってくださるように。
あるいは皇帝ルイが来てくださるように」。
それらの者らは答えた。「主が我々を祝福してくださるよう」。
ヴィヴィアンは第一戦で戦った。
攻撃の中で千人のサラセン人を倒した。
異教徒らは恐るべき息切れの状態に彼を置いた。
百人中20人しか残さなかった。
これらの者は、丘のわきに沿って逃げた。

47


「ヴィヴィアン殿、主にかけて、どうしましょう?」。
「戦うことだ。それ以外のことは言わない。
主の恩寵をもって、彼らを打ち倒すのだ」。
「主は我々をお忘れになった」。これらの者は答えた。
多くの者が、20人で50万の武装した異教徒に戦いをいどもうというのなら、ヴィヴィアンは正気を失っていると言った。
「もし仮に彼らが豚や野豚*、猪だとしても、今からひと月のうちに彼らを殺しきることはできないだろう。
ヴィヴィアンは言った。「そんなことは分かっている。
あなた方は今ぶどう畑や野原、城や大きな町のこと、また、妻やあなたがたの家のことを考えている。
そういったことを考える者は決して功をあげることはない。
殿方よ、私が完全な同意を与えるから、どうか行ってくれ。
私はここに残り、最後の最後まで戦うから。
私は決して逃げたりはしない。戦場から逃げ出すようなことは絶対しないと主に誓ったのだ。
私は、主の恩寵と共に、彼らに勝つ。
*野豚と訳した"vers"は本来「去勢していない雄豚」という意味しかない。


28


「ああ、殿方よ、主の愛にかけてあなた方にお願いする。
あなた方の臥所へ死にに行って何のためになろう?
倒れた高貴なる騎士たちを見よ。
彼らは生きて元気でいた限り、我々と共にいて、戦場を守ったのだ。
あなた方が彼らに何を約束したのかをよく知っておいていただきたい。
死んだ人間に嘘をついてはならない。
どうか行ってくれ。私はここに残る。
私は決して逃げない。主にそう誓ったのだ。
死の恐怖のために逃げたりはしないと」。
この言葉を聞いて、フランク軍の者らは皆ヴィヴィアンを見捨てた。
ジラールだけが彼と共に残った。
2枚の盾で戦いを続けるために、彼らは苦しい危険の中に残ったのだった。

Lunesdi al vespre(月曜の晩祷に)

たった2枚の盾をもって彼らは戦場に残ったのだ。

49


フランク軍は、丘に沿って進みながら、離れて行った。
彼らは前方の美しい平原の方を見た。
その場所からは、敵なる卑劣な輩で覆い尽くされていないような地面は見えなかった。
剣や兜が至るところで光っていた。
逃げ道がなく、恐るべき乱闘から外に出ることができないことを知ったとき、
彼らはヴィヴィアンの方へ手綱をとった。
彼らは候のところへ来て、必死で彼を呼んだ。
「ヴィヴィアン殿、我々があなたのために何をするかご存知ですか?」
候は答えた。「言ってみたまえ(あなた方の言うのを聞こう)」。
「もしあなたが行かれるのなら、我々も行きます。
もし戦われるのなら、我々も戦います。
あなたがなされることを、我々もいっしょになってするのです」。
ヴィヴィアンは答えた。「殿方よ、感謝する」。
そして、供のジラールを見て、自ら彼に質問した。

50


「友ジラールよ、身体は大丈夫か?」
「はい」。彼は言った。「内も外も」。
「ジラールよ、言ってくれ。お前の武器がどのような具合なのかを」。
「私の信仰にかけて、殿よ、それらは我々に大いなる戦いをしかけた者の武器のように、良く使えます。
そして、必要とあれば、もう一戦たたかえるほどです」。



原文では、ヴィヴィアンは、公、候、伯と、いろんな名前で呼ばれています。いいかげんと言えば、かなりいいかげんな言葉の使い方ですね。帰国後に一度、これまで訳したところを洗い直してみようかと思っています。本来決まっていないものを、ギョーム→候、ヴィヴィアン→伯とか、無理にでも統一させるか、あるいは、ファジーなものをファジーなままでおいておくか・・・。現代思想や科学は後者の流儀ですが、近代科学は前者を志向しそうですね。一般読者はどう考えるだろうか?


 
 



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