901158
Monastery of TUROLDUS


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こちらの掲示板は、ローランの歌を読んだ上での疑問・新情報や、管理人の覚え書きなどの書き込みを主にしています
スパムが増えたため、一部を破棄した上で残しております。
書き込み禁止の閲覧のみとなっておりますが
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業務連絡 投稿者:蔡文姫(管理人) 投稿日:2006/02/07(Tue) 17:01 No.206 
 スパムカキコが最近多くて、毎日修正しているような状態です。さすがに、面倒見切れなくなってきましたので、このままの状態で掲示板のアドレスのみ変更したいと存じます。
 つきましては、本日を持ちまして新しく作る掲示板にて書き込みをお願いします。

 場所につきましては、トップ頁より再度入室お願いします。

 また、以後にこの掲示板に書き込みされた内容については、新掲示板に反映されないこと(本日より一ヶ月ほどで掲示板ごと削除になります)とご了解くださいませ。

 Breeze様の記事削除のご依頼は承りました。

 今後ともよろしくお願い申し上げます。

蔡文姫(管理人)(2/7-17:35)No.207
Breeze様にご連絡。
 ハジメマシテですので、お時間ございましたらこちらでも、ゲストブックでもかまいませんので、ご挨拶お願いします。

 文字のみ、顔の見えないおつきあいとはいえ……顔が見えないおつきあいだからこそ、礼儀正しくありたいものです。
 苦言、ご容赦くださいませ。

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ギヨームの歌 投稿者:きよ 投稿日:2002/11/04(Mon) 14:51 No.133  <HOME>
Seven Courts に掲載されている「ギヨームの歌」ですが、それらしいものについての説明をBritannica事典で目にしました。"Guillaume d'Orange"の項です。

 ギヨームは、ロランやルノー・ド・モントーバンと同年代のキャラ/人物です。ギヨームが仕えたのは、ルイ聖王(13世紀の人)ではなくて、ルイ敬虔王(シャルルマーニュの第3子)です。そうじゃないと、成立が1100年というのとかみあわないものね。

 ギヨームは、ラテン語の年代記に Wilhelmus として記される人物と同一。
 英雄詩では Guillame Fière-brace (=>「剛腕の」)や、Guillaume au courb[court] nez (=>「鉤鼻の」)とも呼ばれるそうです。

 Vivian (=>ヴィヴィアン)がサラセン王Déramé[Abd-er-Rahman](=>ドラメ)に挑んで戦死し、ギヨームの腕の中で息をひきとるetcのくだりは、「Chevaleri Vivien」 と 「Aliscans」からなる一連のポエムに登場するのだそうです。
 
「ギヨーム・ドランジュ」を主人公とする中世フランス英雄詩集というのは、しめて24作ほどあるそうです。1903年に"Chanson de Guillaume"(13世紀のアングロ・ノルマン語のテクスト)が発見されていれていて、例のヴィヴィアンの死の一部は前述「Aliscans」がベースだと考えられるのだそうです。

きよ(7/3-11:15)No.137
追伸・訂正ですが、上で「ギヨーム」が主人公の作品24作というのは語弊があって、ギヨーム作品群(=シークル)の中にカテゴライズされる作品がしめて24作であるというべきでした。

 全部で80作余でしたか存在するフランス英雄譚詩は、主に3つのカテゴリーに分類されます(http://home.ix.netcom.com/~kyamazak/myth/roland/roland-items-j.htm#girart にまとめてあります)。

『ギヨームの歌』のストーリーは、『カルル大王(カルルマグヌース)のサガ』第九部の「ヴィルヒャルム・コルネイスの物語」で古ノルド語の散文で書かれており、 Hieatt による英訳(全3巻のうち第3巻)に収録されます。

 ちなみにギヨーム(Guillaume)[仏]=ウィリアム(William)[英]=ヴィルヘルム(Wilhelm)[独]=ヴィルヒャルム(Vilhjálmr)[古ノルド]。

Breeze(2/5-11:37)No.194
岩波版『西洋人名辞典』の「ギヨーム・ド・ランジュ」の項目に、この Guillaume d'Orange (?〜812)なる人物は、「カルル・マルテルの孫で、カルル1世(大帝)に仕えた」と記されています。
がしかし、「カルル・マルテルの孫」といっても、これだけでは詳しい系図関係が分かりません。
庶子、或いは外孫だったのでしょうか?
とすれば、ギヨームの両親は誰と誰ということになるのでしょうか?
カロリング朝期はもとより、中世西欧史には全くの門外漢ですので分かり易く丁寧に教えて下さい。
どうぞよろしく。

Breeze(2/7-12:11)No.203
きよ様、皆様方。
「ギヨーム・ド・ランジュ」に関して色々と御教示頂き、まことに有り難う御座居ます。
 手許の『中世騎士物語』なる袖珍本を披見しても、「シャルルマーニュの従兄弟トゥールーズ侯ギヨーム」が793年のイスラーム軍との闘いに奮戦したとの旨、記されて居ります。
 やはり、彼は「カルル・マルテルの孫」として位置付けられているようですが、系図関係は判然と致しません。
もちろん、−−−アインハルトらの「カロルス大帝伝」などの正史的文献には登場しないようですが、−−−数々の英雄叙事詩に謳われるからには、よしんば史実に反していても、両親の名前ぐらいは語られていたことかと推察されます。
此の件に就いて、なにか御存知の方々がいらっしゃいましたら、是非とも御教え下さい。
宜しく。

Breeze(2/7-12:18)No.205
きよ様。
『カルル大王(カルルマグヌース)のサガ』と、お書きになっていますが、「マグヌース」と「ヌー」音が長母音になっているのには何か理由があるのでしょうか?
古典期ラテン語では「マグヌス」となる筈ですが・・・。

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ミサと朝の勤行 投稿者:蔡婉泉(管理人) 投稿日:2005/06/02(Thu) 23:45 No.146 
 11レース、サラセンの使者が来た翌朝、シャルル王は早朝ミサと朝の勤行を済ませたのち、戦評定を開きました。

 キリスト教のミサ、朝の勤行とは、どんなものなのでしょう。カトリックの習慣だと思うのですが。
 ちなみにうちは真言宗なので仏壇にお経を上げてご飯とお茶を取り替えて拭き掃除をするだけですが……。

蔡婉泉(管理人)(3/27-23:21)No.146
 ちなみに、「その国」がドイツを指すのか、フランスを指すのか、古仏語を指すのか、イギリスやイタリアを指すのかでも、検索対象が変わってきてしまいそうですね。

きよ(6/26-18:55)No.149
"フレールジャック"というフランスなら誰でも知ってる歌がありますが、お坊さんのジャック、まだ寝てるの、朝課の鐘(マティーヌ)を鳴らしなさい、という文句になっています。
 一日には7つの祈祷時(heures canoniques)があります。手元にあるクレチアン・ド・トロワの本から抜き出すと、祈祷時はmatin, prime, tierce, sext, nones, vespers, complines といいます。
ややこしいのですが、例えば nones = の直訳は「九時課」の意ですが、中世においては「午後3時ごろ」を指しました。ところが「正午」を意味する"noon"という英語の語源でもあるのです。
 日課が書かれた中世の政務日課書 brèviaire や 時祷書 heures にはすばらしい(いと豪華なる)アートワークの施されているものがあります。

きよ(7/22-14:56)No.152
カトリックの礼拝のときはひざをつくのが通例だと思います。英語だとこの「ひざまずく」動作のことを"genuflect"といいますが、これはフランス語の「ひざ」= genou に由来でしょう。
 詳しい歴史は調べていませんけれども教会には"bass"というひざまづくためのマットが置いてあったりするそうです。"bass"とは、そもそもリンデの木(しなのき。菩提樹)のことで、昔はその樹皮を割いて縄やマットに編んだようです。北欧神話で鍛治師ヴェールンドが腕輪を連ねて通したひもも"bast"(しなのき)でした。ヴェルンドは一般にゲルマンかアングロサクソンの鍛冶師と思われていますが、フランス武勲詩二登場するガラン「Galan(t)」も、とどのつまりヴェルンドのことです。

蔡婉泉(管理人)(7/22-19:28)No.153
きよ様。お久しぶりです。そして、有り難う御座います。
 書き込み、さっそく参考にさせていただき、いくつかの文献を見つけました。うまく物語の中に取り込むには、聖書の勉強などに手を出さねばならぬようです。あう。

きよ(9/3-18:10)No.154
一騎打ち試合の前に、協会やチャペルにお祈りやお布施をして必勝祈願などもしたようですよ。
 典拠としては、サラセン人だが改宗してシャルル王の王女をめとり家臣となった「オテュエル」(剣「コルスーズ」または Corrouge の

持ち主)のロマンスを挙げることができます。
 中期英語詩からの訳は、
酒見研究室http://www.eleph.it-hiroshima.ac.jp/sakemi/
でご覧になれます。
 ただ中期英語詩では、オテュエルとロランとの一騎打ちの前に、王やロランはただ「ミサに」行っているだけなんですよね。
 しかし古期フランス語原作の「オティネル Otinel」だともっと詳細な描写があり、聖ドニの教会にて王は、黄金の杯(hanap d'or)いっぱいに"parisez"という名称の貨幣をつめて寄贈しています。
 一方、ロランは教会にみずからの剣デュランダルをいったん寄贈し、のちに十マルク(.x. mars)を支払って剣を請け出しています。

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チュルパンの杖 投稿者:きよ 投稿日:2005/06/27(Mon) 08:17 No.150 
ロンスヴォーの戦いのさなか、フランス勢は、
「また、見事なる武者振りかな!
大司教の手中にありて、その笏杖は安泰なり!」
(岩波文庫版 127節1558行-)

 ちくま文庫版ではどういう表現か知りませんが、岩波版で「笏杖」といっているのは、司教が持つことになっている、先がくるくる渦巻いている杖のことです。
 ハイデルベルク大学所蔵写本にあるコンラット作『ローラントの歌』の挿絵にそれを持つチュルパンの絵が描かれています:
http://home.ix.netcom.com/~kyamazak/myth/arms-weap/almace.htm#turpins_crosse に掲載(和訳はまだです。ごめんなさい)。

 また、テュルパンとおぼしき人物がこの「司教杖」を持っている彩りゆたかな絵は、『偽テュルパン記』の表紙にあります:
http://www.omifacsimiles.com/brochures/calix2.html

 騎士たちは、はじめ槍でいくぶんか戦って、それが折れたり、落馬させたりすると、斜帯に吊るしてある剣を取り出して戦うのがパターンなのですが、チュルパンはこれに加えて杖も持ってきたのでしょうか?という疑問がわきます。

 むふふ、何をかくそう、この司教杖、「仕込み」になっているのだ、これこそが「アルマス」の正体だぁ〜というオチで四コマ漫画が描けるかも。

きよ(7/22-14:26)No.151
 上記のフォローですが、「ロランの歌」ではチュルパン司教がもっている「クロス」とは「笏杖」だという解釈は妥当だと思います。しかし、完全にそうとは言い切れないかも。
 「アスプルモンの歌」によれば、法王ミロンが、キリストが磔刑にされ、ロンギヌスが主のその片腹を刺しし「真の十字架」のひとかけらを埋め込んだ「クロス」を戦場にむかうフランス勢の誰かに持たせようとします。エレンギやイゾレらの騎士は邪魔だとしてご辞退もうしあげますが、司教テュルパンが持つと引き受けます。おそらくここでは「クロス」=「十字架」ととるべきなのでしょう。

 「アスプルモンの歌」ですが、まだロランが騎士叙勲を受けていない若造の頃を歌っていて、彼がサラセン人の王子オーモンを倒し、名剣デュランダルを得たいきさつを説明します(同時に馬ヴェイヤンティフや象牙の角笛オリファンも入手した)。

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ログ消え 投稿者:蔡婉泉(管理人) 投稿日:2005/05/01(Sun) 18:15 No.145  <HOME>
ひなたさんの投稿が消えてしまい申し訳ありません

蔡婉泉(管理人)(3/27-23:18)No.145
 はじめまして。綴りですが、私も随分調べましたが現在オックスフォード版しか手に入っていません。もともと、オック語という文字のない言葉なので、同音異綴が結構あるそうです。また、現代仏語訳もあるそうですので、どうにかして手に入れてみてもいいかも知れません。
 オックスフォード版はネット上で簡単に手に入りますし、日本語サイトでも電子テキストを作る試みがされています。どこか忘れてしまいましたが、オックスフォード版に使われている単語を一覧にしたサイトもあるはずです。検索してみてくださいませ。

きよ(6/26-17:33)No.147
久しぶりに訪ねてみました。「サラゴッサ」でしたらスペインなんだと思いますよ。フランス側からスペインのサンティアゴ巡礼に行く道は世界遺産かと思いますが、途中でロンスヴァル(ロラン遭難の戦地)があるのではなかったでしょうか。サンティアゴは英語だと聖ジェームスなんですよね。で、フランス語だとこれがサン・ジャック。ここへの巡礼者は、ローブのような服に帆立貝の貝殻を縫い付けるのがならわしです。ですからホタテ(の貝柱)のことをフレンチレストラン「コキーユ・サンジャック」と呼びますよね。

きよ(6/26-18:24)No.148
なぜか自分が投稿した後、5月付けと6月付けの親記事が入れ替わってしまってんですが??
 「ロランの歌」オックスフォード写本のオンラインテキストでしたら、"Bibliotheca Augustana"版 (http://www.fh-augsburg.de/~harsch/gallica/Chronologie/11siecle/Roland/rol_intr.html)。がお勧めですね。
 左欄にフォリオ番号(つまり"23r"は「第23葉の表」の意)が入れてあります。すると、オックスフォード写本の現物が画像化してあるサイト(http://image.ox.ac.uk/show?collection=bodleian&manuscript=msdigby23b)を利用する場合、便利です。
 よく配布されている全大文字の電子テキストは写本どおりじゃなく訂正が入っていましたよ。

ひなた(3/29-00:08)No.147
お返事有り難うございます。
ご意見を参考にさせて頂き、もう一度調べてみたいと思います。
『その国』の詳しい説明を入れずに申し訳ありませんでした。
「ローランの歌」の設定の国の言葉です。
ご意見、どうも有り難うございました。

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ローランの歌について 投稿者:もち 投稿日:2005/01/14(Fri) 22:47 No.142 
はじめまして、いま大学で「ローランの歌」に対する感想文のレポートがでていて困ってます。なにか良い情報はないでしょうか。

蔡婉泉(管理人)(1/20-22:51)No.143
感想文ですか……。遅レスすみません。
 私もすごく苦手です。
 えっと、ローランの歌って、すごく読みにくいですよね。まずは、ちくま版のあとがきを見て、朝倉氏やRAJA氏のホームページ(参考文献のホームページのリンクにあるはず)のダイジェストを読んでみるのをお勧めします。その上で、翻訳本を読むと理解しやすいかと思います。
 文学と史実の違いを比較検討するのも面白いかも知れませんね。
 良い感想文が書けたら教えてくださいね。

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どなたか・・・ 投稿者:ビギナー 投稿日:2004/08/08(Sun) 22:09 No.139 
こんばんわm(__)m初めて投稿いたします。ネットで調べてて救いの手を求めてます。大学の授業で秋から『ロランの歌』を扱う事になったんです。で、今、必死に読んでいるのですが、なかなか内容が掴めません…。この武勲詩が意味するモノっていうかどういったものなのかというアウトラインを理解したいです。どなやか教えて下さいm(__)m

蔡婉泉(管理人)(8/10-21:00)No.140
はじめまして。
 あらすじの方は簡単に過ぎるのですが紹介させていただいています。また、参考文献の方にはさらに詳しくあらすじ・概要などを書かれているサイトを紹介しております。お時間があれば、伺ってみてください。(おおむね日本語ですから安心して検索してください。)
 ところで、どういった切り口からのアプローチでしょう。
 ロランの歌自体は、「フランク側から見た歴史の伝承(要するに今で言う時代劇的娯楽要素を含む)」という側面、「十字軍の士気高揚のための歌」という側面、そして「最古の武勲詩」という側面、さらに「娯楽としての小説・歌の題材」という側面があると思います。
 それぞれの側面からのアプローチで見方や感じ方がずいぶんと変わってくることを、よく感じます。
 またお暇があれば、これからの勉強の成果をちょこっと教えてくださると嬉しく思います。

ビギナー(8/19-12:46)No.141
「最古の武勲詩」って切り口でとりあえず勉強してみようって思ってます。アウトラインを理解してから多面的にみれたら良いかな…って。まったく無知なんおでお恥ずかしいですが。返信カ書くの遅くなって大変失礼致しましたm(__)m

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手続き。 投稿者:七軌りん 投稿日:2003/09/28(Sun) 22:27 No.138  <HOME>
 サラセン側の和平の使者がシャルルに面会する場面。
 その前に、シャルルの陣営に着いてから、何らかの手続きがあったはず。歌の中では、帷幕に入ってきたサラセンの使者が、誰かに「シャルルはいずこ」と聞いて一発で見つけ、それから会談となっています。

 中世ヨーロッパの戦争、降伏の作法などはあったのでしょうか。また、敵将に直談判に行くためにはどんな手続きが必要だったのでしょう。
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教えてください! 投稿者:うに 投稿日:2003/01/06(Mon) 21:22 No.136 
誰かロランの歌の中の異民族間の接触、関係をわかりやすく教えてください。
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クロック・ミテーヌ 投稿者:蔡文姫 投稿日:2002/10/30(Wed) 17:37 No.129 
クロック・ミテーヌの伝説に関するサイトや書籍があれば教えてください。

きよ(10/31-19:10)No.131
秋田で「良い子にしねーど、ナマハゲがきて食われちまうだど」とか言い聞かせるますが、それに相当するフランスの化け物がクロック・ミテーヌ(croque-mitaine)ということですね。

お尋ねは、そちらのことでしょうか、それとも  それとも、「フランスの近代作家エルネスト・レピーヌ Ernest L'Épine (1826-1893)による、シャルルマーニュ伝説の再話」?

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すみません 投稿者:ウエポン 投稿日:2002/10/04(Fri) 22:35 No.124 
初カキコです。いきなりですが「ロランの歌」に出てくる武器について調べているのですがなかなかわかりません。皆さん教えて下さい!!出来ればシャルルマーニュの12騎士やマルシルの12騎士のが特に知りたいのです、お願いします!!!

きよ(10/14-13:15)No.125
-ロランの歌の武器-
フランス勢の十二臣将やサラセン人たちのすべてが、名のついた武器を持っているわけではありません。

朝倉秀吾さんの http://www.syugo.com/germinal/lecture/roland/ の「データ」のセクション(data.html)を見れば、武器・防具、馬、12臣将名があります。

手前みそですが、私のホームページ http://home.ix.netcom.com/~kyamazak/index.html
に、それぞれの武器が出ている箇所を引用しています。(岩波文庫版)
 「ロランの歌」以外にもシャルルマーニュ伝説の関連作品のいくつか挙げていますが、『デーン人オジエ』に登場するクルタン、『ルノー・ド・モントーバン』(騎士)や『モージ・デーグルモン』(魔道士)に出るらしいフランベルジュ等は、詳しく調べておらず未掲載です。

蔡文姫(10/16-17:09)No.126
きよ様、ご紹介有り難うございます。
 フランベルジュに関しては剣の銘ではなく種類かと存じます。柄はレイピアのように装飾的で刀身の部分が波形になっています。
 レイピアは「突き」用であるに対し、フランベルジュは「突き」「斬り」の両用で、刃がまっすぐではないために傷を負わされるとかなり難治だったそうです。

滝 瓶太郎の
SWORDS WORLD
http://member.nifty.ne.jp/bintaro/
 の方にイラストがあります。(こちらの方には、デュランダルとジュワユースの想像図が置かれています)
 また、新紀元社の書籍にもいくらかの資料になる記述が数冊に見受けられます。

 他のサイトで詳しく情報を収集されているのであえてコンテンツに入れていませんが、あった方がいいでしょうかねぇ?

ウエポン(10/17-19:40)No.127
お二人方情報ありがとうございます!もう少し色々探してみようと思います、何かまた情報があったらください!!

蔡文姫(10/18-17:08)No.128
ウエポン様も、面白い情報があれば教えてくださいね。よろしく〜〜

きよ(10/31-19:01)No.130
フランベルジュが波型剣であることは存じ上げておりますが、シャルルマーニュ伝説においては、それが騎士ルノー・ド・モンタルバンの剣名でもあります。

 英語ですが、http://www.bartleby.com/81/11165.html またはhttp://www.bartleby.com/81/6529.html を見ると、前述の『モージ・デーグルモンとその兄弟ヴィヴィアン』という作品にでてくることがわかります。魔道士モージは、騎士ルノーとは従兄弟どうし(ただ、cousin, voisin はルーズに使われるので、単に親戚が姻戚の意かもしれません)。

 フランベルジュはフロベルジュとも呼ばれるそうです。

 イタリア版(すなわち『オルランドー』)では、ルノー=>リナルド、モージ=>マラジジ、そしてフランベルジュ=>フスベルタのように、固有名詞はイタリア化されます。(参照:「修道士名簿」でも紹介の有る、ブルフィンチのシャルルマーニュのページhttp://www5e.biglobe.ne.jp/~fly_bird/charles/ch_objlist.html 愛剣 愛馬 マジックアイテム 等があります。)

きよ(11/4-13:29)No.132
追加:ルノーとモージは、やはりいとこ同士のようです。いずれも Doon de Mayence が祖父。この御仁は Brewer's 辞典だと Doolin of Mayence と呼ばれるようですが、メルヴェイユーズ(Merveilleuse)という剣を持っているそうです。

きよ(11/4-18:48)No.134
ルノーの剣フランベルジュについては、新紀元社の書籍にも載っているようです。http://w3.shinkigensha.co.jp/book_naiyo/4-88317-320-8p.html で「聖剣伝説II」の「フランベルジュ」のページをずばり「立ち読み」できます。
 「聖剣伝説」シリーズは、手にしたことはないですけれど、検証が甘くて誤謬も多いと思います。
 上述したリンクも、正しくは Flamberge であるつづりの"m"が抜けているとか、モントーヴァンじゃなくてモントーバン(Montauban)というポカあり。ルノーは、帝の甥Bertolai とチェスの手合わしして諍いになり、チェス盤で叩き殺して帝の逆鱗に触れ、四兄弟ともにお尋ね者になるが、篭城、国外逃亡などして生きつなぎ..という話になっています。その馬バイヤールは、人語を解した(しゃべるのではないが、命令を理解した)とか、四兄弟の身長に合わせて伸縮したとかの伝説の馬です。

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マルテの重さ 投稿者:きよ 投稿日:2002/09/05(Thu) 12:24 No.123  <HOME>
『ロランの歌』で、バリガンは、マルテ Maltet[仏, 原典]
(初出:229節:3152行)という、その穂先だけでも騾馬の重荷になるほどに重い矛をふるいますが、バリガン総督の鹿毛の軍馬 destrier brun[仏](202節:2816行)は、 その重い矛をも担いながら、なお50ピエ(15メートル)もの濠を飛び越すとは、名も知れないが並ならぬ馬である。

とまあ、こんな風に自分のロランページに書きましたが、追加情報があります。それは「騾馬の重荷」がざっくりとした表現ではなくて、中近東でつかわれた重さの単位を指すようなのです。

=>中世ペルシャの重さの単位であるハルワール(カルワール)は、直訳すると"ロバの荷重"の意で、100 マンに等しく、約 160 kg にあたる。現在アフガニスタンで使われるハルワール= 565 kg または 580 kg(16 maund = 1280 ポンド) という。

 このように数量はなぜか大きな開きがありますが。
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ハリネズミと食べ物 投稿者:きよ 投稿日:2002/07/29(Mon) 16:15 No.113  <HOME>
こりらの管理人さんの散文的ロランを見てふと気になったんですが、「矢でハリネズミにされる」という表現がありますが、ハリネズミというのは日本に生息しませんよね?(ソニック・ザ・ヘッジホッグ以外は)。ですから、これは外来句ということになりますが、ともかく英語では、"ヘッジホッグにされる"なんて、ついぞ耳にしたことありません。ただ、ヘッジホッグをアーチン urchin ということもあるので、OED を調べると、なんとありました。 "stuck full of arrows as an urchin full of pricks"という例です。

 英語の urchin にあたるのはフランス語の oursin (ちっちい熊の意)ですが、これは現代ではもっぱら sea urchin つまり、ウニのことをさすようです。
 しかし、Larousse Gastronomique (食べ物事典)をよく見ると、フランス人はウニも食うが、ハリネズミも食ってた(16世紀まで)ことがわかりました。
 この食べ物事典を読むと、鯨も「魚」だから四旬節に食っていい、とか水鳥やビーバーも水に関係するからやっぱり「魚」とみなして四旬節に食っていいとかが載っているのでおもしろいです。中世の西洋で「魚の皮」という表現も、カワウソなど水棲動物の毛皮を指すこともあるそうです。

蔡文姫(サボリ気味管理人)(7/29-22:06)No.114
無知で聞くのが恥ずかしいのですが、「四旬節」というのは……?
 私が書いているのは、筑摩版や岩波版をベースにした小説もどきで、そこここに創作を入れているので……ダウトがいっぱいあると思います。これからもきっと量産して行くんでしょうね……(恥)
 でも、言葉って面白いですね。外国語、勉強したくなってきた〜〜(英検三級で挫折したワタシ)

きよ(7/30-18:53)No.116
四旬節は、英語ならLent、仏語なら carême と載っています。日本ではおそらく見かけないんでしょうが、ある日、町ん中で大勢の人間が額に一点の煤みたいなのをつけたまんま歩いていて「何だ?」と思う日があります。これは、灰の水曜日で、この日からイースター(謝肉祭)まで40日間にわたる期間をいい、この間は、肉・卵・バターは忌避しなくてはならないのが、昔の習慣でしたが、今はザル法化しているそうです。

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ロランの歌のページ 投稿者:きよ 投稿日:2002/07/23(Tue) 17:09 No.111  <HOME>
 ちょこっとロランの歌のページつくりました。土台は、アイテムリストで、該当箇所を岩波版・原典・英訳と引用してあります。また、自分なりにいろんな考証を試みました。

 おそらく他の日本語サイトにはないような内容もあります。Vika Zafrin氏のロラン HyperTextプロジェクトから得た、『カルル大王のサガ』にあるデュランダルの由来や、コンラッドによるドイツ版の歌(リート)では、聖遺物がどう違うか、とかの引用箇所を和訳しておきました。

 あと、完全ではないですが、それなりにリンクを張ってあります。画像も、けっこう発見困難な、ヴェロナの聖堂のロラン像や、ローマの法王宮殿址のモザイク画のシャルルとかもありかを掘り出しました。

URLはhttp://home.ix.netcom.com/~kyamazak/myth/roland/rol_framej.htmです。
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『ロランの歌』は史実だった? 投稿者:Ludovico 投稿日:2002/07/16(Tue) 16:38 No.105 
今年もまたロランの命日である8月15日が近づいてきました。今日はこの日の思い出のために長文の投稿をさせていただきます。
『ロランの歌』の題材となった例のロンスヴォーの事件は、史実としてはサラセン軍との本格的な軍事衝突ではなくバスク人の山賊だかゲリラだかによる襲撃事件であった、ということになっており、日本語版『ロランの歌』の解説などでもだいたいこのように書かれています。こうした「史実」の情報源というのはエインハルドゥスの『カール大帝伝』であり、また『王国年代記』への後代の加筆部分であって、これらはいずれもフランク側の正史あるいはそれに準ずるものであり、書かれた年代はいずれも9世紀初頭ないし前半です。だから史料としての信憑性は、それから三百年近くも後になって成立したと見られる文学作品の『ロランの歌』などとは比較にならない、というのが、まァ一般的な常識でしょう。
だからこそ、778年の小規模な武力衝突事件が一体どうやってあの長大な『ロランの歌』にまで成長したのか、つまり、正史には名前も載っていないロランがいつの間にそんなに「偉く」なったのか、それにバスク人だった敵がどこでどうサラセン人に取り換えられて、その結果、物取り目当ての強盗殺人事件だったものがキリスト教徒対イスラム教徒の大決戦にまでなってしまったのか、てな問題がロマン主義時代この方、ベディエやらライナやらメネンデス・ピダルやら幼児やらといった各国の学者先生方の間でケンケンガクガクの議論となってきたわけです。
でも、仮にもし『ロランの歌』が基本的に史実を歌ったものだったとしたならば、ハナシはだいぶ変わってきます。以下にご紹介するのは、私メが勝手に捏造した空想・妄想の類ではなく、大学者Michel Zinkの書いているもので、これを読んだ時にはロランのファンの一人として少々コーフンさせられたものですから、ここに書かせていただく次第です。
まずもって、カール大帝のスペイン作戦そのものについては、最近、講談社のメチエ選書から出た『地上の夢、キリスト教帝国』という本の中にも書いてあります。ただ、この本の該当部分には少しばかり混乱があって分かりにくくなっていますので、そのあたりから改めて入って行くことにしますと、当時のスペインはいわゆる後ウマイヤ朝時代でして、一応コルドバのエミルの支配下にありました。ところが、サラゴサの領主であったスレイマン・ベン・アル・アラビーなる豪族(これがさしずめマルシル王のモデルでしょう)がコルドバの中央政府に従うのを潔しとせず、カールに助っ人を要請して抵抗を試み、群雄割拠状態を保とうとした。で、この要請に乗っかってイベリア半島での影響力を強めようとしたカールは、いわば庇を借りて母屋を乗っ取ろうという算段でサラゴサ側を支援すべくピレネー山脈を越えて遠征します。ところが、いざサラゴサに到着してみますと、その間にスレイマン・ベン・アル・アラビーはやっぱりカールみたいな野蛮でしかも野心的な異教徒の酋長に助っ人など頼んだのはマズかったと後悔したんでしょうね、コルドバのエミルに恭順の意を表してカールに対しては城門を閉ざしてしまっていたのです。このあたりは13世紀のアラブの歴史家イブン・アル・アシールなる人の書いたものが情報源だという話ですが、せっかくサラゴサまで来たのに目の前で城門を閉ざされて怒ったカールは、サラゴサを包囲、攻撃しまして、スレイマン・ベン・アル・アラビーを捕虜にします。カールとしては、彼をアーヘンに連れて行ってその後の交渉の切り札にしようとしたわけです。ところが、スレイマンには息子たちがいました。そしてこの連中が親父の奪還作戦を立てるのです。
ちなみにサラゴサでスレイマンを人質にしたカールの軍勢は、帰路パンプローナの城壁を破壊して乱暴狼藉の限りを尽くしていました。ですから、これによって恨み骨髄であったバスク人にスレイマンの息子たちが助っ人を頼めば、彼らが喜んで協力してくれたことは言うまでもありません。そして彼らは、やがてカールの部隊がピレネー山中を通るのを待って、勝手知ったるイバニェタの丘ことロンスヴォーで待ち伏せを掛け、大戦果をあげて、見事スレイマンの奪還に成功したのです。つまり、奇襲を掛けた人たちの主力、あるいは少なくとも一部は確かにバスク人だったのでしょうが、実際にはこれはサラゴサのイスラム軍閥正規軍による作戦だったわけで、あるいはコルドバからの直接支援だってあったかもしれません。
ともあれ、フランク側は、カールの親衛隊長やらセネシャルやらといった重要人物が殺されてその被害は甚大であったばかりか、せっかく人質にしたスレイマンも奪還されてしまって、戦略的にもスペイン侵攻作戦そのものが意味を失うという、散々な結果に終わったのでした。
そこで、ロンスヴォー事件に関するこのアラビア・ヴァージョンが正しいとすると、エインハルドゥスの『カール大帝伝』やらフランク王家の正史やらの上で、この事件が不正確かつ言葉少なにしか言及されていないということのウラには、まったく別の意味があったことになります。つまり、事件がそう大したものではなかったから、だから言及が小さく不正確だったのではなく、逆にそれが大事件だったからこそ、史料が沈黙しているのだ、ということです。要するにこれらは大本営発表であって、真実とは程遠い「我が軍の損害は軽微なり」という言葉を繰り返しているに過ぎず、歴史の真実はむしろ『ロランの歌』によってこそ語り継がれていたことになります。
『王国年代記』は当初はスペイン侵攻作戦の成功を声高に伝えるばかりでロンスヴォー事件にはまったく触れもせず、およそ20年後になって書き足された加筆部分(ということはエインハルドゥスの手になる可能性もあります)で初めて、帰路バスク人の襲撃に遭って戦死者が出たことにチラリと触れますが、それでもまだその戦死者の名前などは挙げていません。そして、大帝の崩御から十数年もたち、エインハルドゥスも政界から身を引いた830年以後になって書かれたと思われる『カール大帝伝』を待って初めてロラン他3人の犠牲者の名が歴史に登場することになるわけです。この時にはロンスヴォーの事件から実に半世紀以上が経過していました。で、これは要するに、敗戦の痛手がやっと癒え、カール大帝自身もこの世を去ってしまい、だからそうそう遠慮する必要もなくなっていくにしたがって、やっと少しずつ真実を書くこともできるようになっていったという、そのプロセスを示していたことになるわけです。
でも、いくらアーヘンの中央政府でこうした報道管制をしていたところで、これほどの大敗北のニュースがあちこちに伝わらないわけもなく、ニュースはやがて歌となり、叙事詩となって11世紀末のオックスフォード写本になり、我々の時代にまで残ることになった、というのが事の真相だったということになります。
確かに、例えば『ロランの歌』でイスラム側は人質を出してフランク軍を引き上げさせる策を考えたことになってますが、実際にはその後、人質は全然話題にのぼってきませんよね。ロンスヴォーでもアーヘンに帰ってからでも、改宗したブラミモンドはともかくとして、イスラム側が差し出したはずの人質などひとりも登場しません。このあたりも、人質をロンスヴォーで奪還されてしまっていたと考えると、何となく辻褄が合うような気がしないでもありません。
ともあれ、まだまだ他にもこうした新しい「史実」を考慮に入れることによって合点の行くことがあるのではないかと思う次第です。

きよ(7/21-11:00)No.109
 面白く読ませていただきました。ただ、背景知識の乏しさから、あまり建設的意見は出てきません。
>帰路パンプローナの城壁を破壊」
というのは、岩波の178行の註にある『パンプリュヌ攻略』という武勲詩の題材なんでしょうね。

幼児(8/7-17:49)No.120
武勲詩『パンプローナ攻略』というのは、確かにあるといえばあります。が、この名称にはかなり問題がありまして、どういうものかと言いますと、19世紀後半にアドルフ・ムッサフィアというオーストリアの研究者がヴェネツィアにあるV5という写本の中身を活字にして出版したときに、その詩に付けた名前がこの『パンプローナ攻略』なのです。
しかし、詩の内容から言いますと、「このタイトルは一体どのように付けられたのか?ムッサフィアは何を考えていたのだろうか?」と思わせるようなものなのです。
物語はパンプローナをすでに攻略したその後の場面から始まります。シャルルマーニュの軍は、さらにコルドバを攻略した後、スペイン西北部のサンチャゴ・デ・コンポステラを目指して、西へ西へと十字軍を続けます。そういう話です。
ムッサフィアがなぜかタイトルとした「パンプローナ」を攻略するあたりのことは全く書かれていないと言えるでしょう。
近年この『パンプローナ攻略』の新しい版が出ましたが、もとのタイトルがあまりに内容にそぐわないため、『スペイン侵攻続編』という別の名前が与えられています。

Ludovico(8/8-10:49)No.121
そうですか、『パンプローナ攻略』はムッサフィアの仕事だったのですか。これも『スペイン侵攻』同様トマなのかと思っていました。ところで、『ロランの歌』ではサラゴサが山の上の城市であるかのように語られてますよね。実際は平地にあるのに...。シャンソン・ド・ジェストに出てくる地名にも詳しい幼児さんは、これについて何かご存知ですか?

幼児(8/24-01:11)No.122
知っているというほどのものではありませんが、あの「はじめに道ありき」説でで有名なベディエ(19c末頃のフランスの学者)が、「シャンソン・ド・ジェストの少なからざる部分がサンチャゴ・デ・コンポステラへの巡礼路沿いをフランク軍の活躍するフィールドとして選んでいる。そしてその道沿いについての記述は意外なほどに当時の現実に合ったものである。しかし、その道を一歩はずれるやいなや、歌い手らのスペインの地理に関する知識はきわめて頼りないものとなる。たとえばフランク軍のコルドバ攻略の部分などは、そこへ行くために、陸行一日、その後に水行一日といった具合である、となっています。全くもっていいかげんなものです。このベディエの説に沿って考える限りは、巡礼路から外れているサラゴサが山上の城砦と書かれたのも、さほど驚くには値しないことだと思います。

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使用上の注意 投稿者:蔡文姫(サボリ気味管理人) 投稿日:2002/07/11(Thu) 23:05 No.103 
 武勲詩だけでなく、ロマン・クロトワや、サガ、カレワラなどについての話題。また、その背景になる歴史の話や、演劇や歌劇や旅芸人等の物語の伝達に関する話は大歓迎です。

 タブーは、今までに犯した方がいないので敢えて書きません。
 一つお願いは、はじめましての挨拶や世間話は「エクス・ラ・シャペル」へ。長文になる知識や意見の交換はここ「修道院」で、お願いします。

蔡文姫(サボリ気味管理人)(7/11-23:06)No.104
Ludovico様。
>でも、これ、『ロランの歌』のホーム・ページなんでしょ。こんな話ばかりしててイイんですか?失礼になりません?
 大丈夫です。私も、こういったお話には興味がありますから。

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「ロラン」は戦で歌われた! 投稿者:きよ 投稿日:2002/07/04(Thu) 16:12 No.94  <HOME>
とあるサイト(http://www.florin.ms/olifant.html)で知ったのですが、『ロランの歌』は、ノルマン人による英国侵略の戦い(ヘイスティングスの戦い)で、タイユフェール
Taillefer という楽士が『ロランの歌』らしかるものを歌ったのだそうです。かの「ブリュ物語(Roman de Brut)」の作者ワースが、太祖ロロ(Rollo)を初めとする歴代ノルマンディ公の歴史をつづった『ルー物語(Roman de Rou)』のなかで、

Taillefer, qui mult bien chantout,
sor un cheval qui tost alout,
devant le duc alout chantant
de Karlemaigne e de Rollant,
e d'Olivier e des vassals
qui morurent en Rencevals.
[英訳を訳すと:]
タイユフェールなる佳く歌いし者、
いと疾きその馬にうちまたがり、
公爵の御前にて歌えり
カルル大帝とローランと、
オリヴィエと臣将たちのことを

とあるのだそうです。この公は、おそらウィリアム/ギヨームそのひとでしょう。

幼児(7/6-02:20)No.96
ヘイスティングスの戦いで『ロラン』が歌われた(ただし、我々の知っている、例えばO写本の『ロラン』などにどれ程近いかは保証外)という話は以前から聞いておりました。『ルー物語』中の記述でしたか。
『ギョーム』(こちらは特に歴史記述作品とは見なされておりませんが)の中にも、ジョングルールが何人か出てきます。そのうちの最低一人は、ジョングルールであると同時に戦士です。
シャンソン・ド・ジェストが会戦の直前に歌われることがあったということを支持する材料(完全に「史料」と言えるものはどれ程でしょう?文芸作品内にジョングルールが登場するケースはかなりあります)はたしかにあります。
今ちょっと探しているところですが、たしか同じ『ギョーム』の中で、ジョングルールが旅の途中で、ギョームのたいくつをまぎらわすために、シャンソン・ド・ジェストを歌ってきかせるくだりがあります。傑作なのは、ギョームの聞いたその歌が、何と『ギョームの歌』!どうなっているのでしょうか?
モノが見つかり次第、またここに書き込んでおきます。(ラウルが『ラウル』を聞かされるんだったっけ?)

きよ(7/6-18:25)No.97
楽師+戦士でおそらく有名なのは、ドイツの『ニーベルンゲンの歌の』フォルケールです。ヴァイオリン(videl)を佳く奏でるので、「ヴァイオリン弾き」(videlaere)の綽名があります。ハゲネと二人で歩哨に立った夜に奏でています。また、ところどころ、トルゥバドゥールと同義の「楽士」(spileman)とも呼ばれてますから詩吟もたしなんだかもしれません。
 上では中世ドイツ語の変形つづりを書きましたが、そのころは"ヴァイオリン"という言葉はなかったので実際は"フィドル"という語が用いられています。楽師が弦楽器を自分で伴奏しながら歌ったものかが、興味深いところです。フォークダンスの掛け声のように謡いと弾きが交互だったかも?それともジャジャーンとか効果音のように使ったのかも。

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原典など 投稿者:きよ 投稿日:2002/07/02(Tue) 16:18 No.91  <HOME>
はじめまして。過去のスレは、かなり時間が飛んでますが、ここでレスさせてください。
Shizuck さん>全部の訳をお読みとは脱帽です。私は岩波文庫版を、かなり飛ばして読んでます。けれど、新倉俊一の『中世を旅する』(白水社)(在庫処分で$4でゲット)という書で、新倉訳のロランが引用されていますが、これはカビ臭くなくってそれであって格調高い、読みたくさせる訳ですね。

 『ロランの歌』の原文:オックスフォード本http://www.laboursedulivre.com/Textes/Chanson_roland.html にあります。原語はたしかアングロ=フランス語(英語化したフランス語)と記憶ます。現代フランス語とはつづりが多少違います。例えば、ロランはRollant オートクレールの剣 Halteclere のごとくです。

エインハルドゥスの『カルル大帝伝』のラテン・英語の対訳はhttp://www.celtic-twilight.com/charlemagne/で見つかります。

ドイツ語版の『ロランの歌』はPfaffe Konrad(僧コンラット)の Rolandslied(1170年頃成立)です。この中世ドイツ語の作品では、主役は Rolant(ローラント)とつづられています(http://www.nd.edu/~gantho/anth1-163/Rolandsliedpp.50-57.htmlに一部の中世ドイツ語vs.現代ドイツ訳があり)

また、北欧の『カルラマグヌス・サガ』には、カルル大帝がどうやってデュルムダリ(=デュランダル)やクルト(=クルタナ)、アルマスなる三振りの剣を手に入れたかというくだりがあるようです。あるサイトに一部サマリーがあるのですが、もし、興味おありでしたら、訳して自己サイトにでもアップします。

幼児さん>
さきに挙げた新倉著にも書かれていますが、トルバドゥール名曲選みたいなものは「ハルモニア・ムンディ」などのラベルでレコーディングされているようです。ちなみに、新倉氏には作詞家が、トルヴェール(北ウィ語)もしくはトルバドゥール(南のオック語)であり、パフォーマンスするのはジョングルール(jongleur)と称しなくてはならない−というこだわりがあります。

幼児(7/3-17:13)No.92
アンリ・ダヴァンソン著の『トゥルバドゥール』という本を新倉さんが訳しておられます。その中でも、「トゥルヴェール(北)とトゥルバドゥール(南)を歌の作者的存在と見做し、ジョングルールをその実演者と見倣す」という意味のことが書かれていますので、新倉さんはその考え方を支持しておられるということになりますね。
ただし、ダヴァンソンの書いたものでは、上述のことがらをひとつの基本とするわけですけれど、それだけではなくて、同じ記事の中に、「ジョングルールの中にもトゥルバドゥールと同じように歌を作る能力のある者もいた」とか「トゥルバドゥール自身が実演することもあった」とかという記述もあり、結局のところ、「本質的に区別できない実体(あるいは総体)を、(社会的に)高く見てトゥルバドゥールと呼ぶことにするか、低く見てジョングルールと呼ぶかというだけの問題」になってしまっている感があります。
で、私個人は、この「名称問題」は、あまり発展的な議論をもたらす材料にはなり得ないのではないかという、やや否定的な見解(簡単に言って、あまり重要視していない)をとっています。

きよ(7/4-15:25)No.93
追加・訂正です。岩波版の解説にでは、ドイツ語の翻訳をバヴァリアの僧コンラッドの『ロランのリード』(K本)としています。(dをドと発音するのは、いわばフランス式で、本当はドイツ式発音では最後のdはトになりますよね)。"Rolandslied"古いつづりは"Ruolandes liet"ですから、ここでは"Rolant"とつづられるというのは誤謬かもしれません。

私が北欧の『カルラマグナス・サガ』と呼んだものは、岩波では『シャルル大王のサガ』(n)と呼んでいますが、これもフランス式の呼び名というべきでしょう。

きよ(7/4-16:49)No.95
社会的地位の上下ですが、上流階級(騎士)がトゥルバドゥールを嗜んでもさしつかえないが、「ジョングルール」を職とするのはいわば「河原乞食」になりさがることであり、下流階級の「ジョングルール」がいかに歌づくりに長けていてもトルバァドゥールとは呼んでもらえないのは、なかなか興味ぶかいと思います。
 
 あと原作者と歌い手が違う場合、歌い手は、「楽士に酒手をはずんでこそ、気前のいい、良き領主といえますよ」とかをアドリブしているでしょう。
 あるいは、原作者が「聖職者を迫害するとバチがあたる」と書いた箇所を「楽師を粗末にすると七代まで不運にたたられる」にスリかえているやもしれません。

幼児(7/10-00:09)No.98
元パン焼きのベルナール・ド・ヴァンタドゥールや住所不定セルカマンなど、一応トルバドゥールと呼ばれていますけど、あまり「上流」であったとは思いにくいが・・・
しかし確かに「ジョングルール」という名前は、当時においても、しばしば侮蔑的な色を帯びていたみたいですね。そのことは、文献のところどころで見られることであり、事実と言ってもいいでしょう。
それから「原作者」・・・当時において「原作者」って何だったのでしょう?まあ、この問題にしても、我々が問題とする時代の前期と後期で、かなりの条件的な違いが予想されるのですが・・・。私は、個人的には、比較的後期(13c頃)の、「歌」が「本」となることがある程度普通になりつつあった時代に興味があります。誰か、どこかの「注文者」が本(同時に歌)を発注する。すでにできあがっているものを注文するケースもあれば、たまに、「これこれこんな話にしてくれ」と、オーダーメイド式に注文を出す人間もいるでしょう。そういう注文に対して、誰がどんな形でこたえていたか、そのあたりのことが、ここしばらくでは、最も私の興味をひくことです。

Ludovico(7/11-14:47)No.99
幼児氏を存じ上げてる者で、ベルナルト・デ・ヴェンタドルン(ベルナール・ド・ヴァンタドゥール)のファンです。初めて参加します。面白いホーム・ページがあるんですね。
ところで幼児さん、パン焼きをしていたのは、彼自身じゃなくて母親ですよ。まァ、身分が低かったというハナシなんだからどちらでもイイようなものですし、それにパン焼き云々というこの話自体、ペイレ・ダルヴェルニャが冗談半分で悪口を言っていたのを取り上げたのだ、てなことを言いながらウック・デ・サン・シルクが語っているもので、だから根も葉もない話であった可能性が結構高く、どだい本当かどうかは分かりませんしね。
ただ、なにせ封建社会ですからね。身分の上下はかなり大きな問題だったんじゃないでしょうか。低い階層出身のトロバドールが存在したことをもって、逆説的に封建社会がすでに絶大な安定性を獲得していた証拠と見なす研究者もいるみたいです。同じような意味で、トロバドールたちの作品とシャンソン・ド・ジェストとを同列に論じるのも危ない気がします。とにかく、ジョングルールってのはやはり相当に差別的に響く呼び名だったように小生は感じてます。

幼児(7/11-17:15)No.100
トルヴァドゥールか・・・シャンソン・ド・ジェストから始まって、いつの間にトルバドゥールの話になったんだろう?
ところで、Ludovicoさん、脱線ついでだ。トルバドゥールの話題が出たところで、ひとつ質問。彼らの間で、一時期だかずっとだか、「論争詩」"jeux partis"等々が流行っていたことがありますね。あれは、まるきり即興で歌われたものなのだろうか、それとも、前もって予告のようなものがあって、準備してきた上で歌われたものだろうか?仮に即興的に歌われたものだとしたら、どれくらいのスピードで行われたんでしょう?何かおもしろいネタあります?

Ludovico(7/11-20:05)No.101
反応が早いですね。ところで幼児さんって、やっぱ言葉の訛りからしても北仏人ですね。トロバドールたちはpartimenって言ってたみたいですよ。で、あれの3人とか、それ以上の人数でやるヤツはtornejamenって呼ばれてたようで、要するにこれはトーナメントのことですよね。その名からして、いかにもやんごとなき連中の遊びって感じでしょ。やっぱ、ジョングルールとトロバドールは身分が違うんですよ。早い話が、ジョングルールとかミンストレルとかでテュロルドみたいに名前の残ってる人って少ないでしょ。トロバドールは何百人もの名前が残ってますぜ。が、まァそれはともあれ、あの手の論争詩に限らず、一般にトロバドールの歌は基本的に口承作品とは考えられてないですから、即興的に歌われた可能性は無いんじゃないでしょうか。partimenの場合でも、内容といい詩形といい、凝りまくったものが多いようですし、まァ、とてもじゃないが即興で作るのは無理だったろうということでしょう。以前、シチリア派のヤコポ・モスタッチとピエル・デッレ・ヴィーニェとジャコモ・ダ・レンティーニという豪華メンバーが3人でやっているtornejamenについて、実際にこの3人が一堂に会した機会があったはずだ、というので具体的な仮説を立てて云々している研究があるという話を読んだ記憶があるのですが、よく覚えてません。いずれにせよ、紙のやり取りをしながら論争したのであれば、そんな「機会」など無くても一向に構わないわけで、そうなるとスピードなどは問題になりませんよね。
でも、これ、『ロランの歌』のホーム・ページなんでしょ。こんな話ばかりしててイイんですか?失礼になりません?ならないように、この下の『ロラン』関係のところにも少し書いておきますね。それに小生だってロランも好きですから、明日にでもロランのこと何か書かせていただきます。

幼児(7/19-03:24)No.106
ジョングルールの名前がろくに記録に残っていないことの説明として、「身分が違った」というのも、1つの考え方として、とりあえず通ると思います。
・・・のですが、ひとつ思ってしまうこと:「ジョングルール」という呼び方に侮蔑的な響きがある以上、自分を紹介するのに、また、他人に紹介してもらうときでも、「ジョングルール某」と言い方はなされないだろう、むしろ、普段は「ジョングルール」並みにあしらわれている連中でも、記録の上では、「ジョングルール」ではなく、「トゥルバドゥール」として残ったりしていたのではないか、そう考えれば、ジョングルールの名前がほとんど残っていない(ように見える現象)のは、実はまったく当たり前の帰結なのではないか、ということです。まあ、私の考えに過ぎませんが・・・。
身分が低かったから、きちんと名前を書いてもらえなかったんでしょうか。いや、身分制度の強力な土壌というものを大きく肯定するなら、むしろ逆に、「ジョングルール某」という記述がもっとたっぷり出てきてしかるべきではないかという気すらするのですが・・・。

Ludovico(7/20-20:14)No.107
えらくこだわりますね。ただ、なんかハナシの焦点がズレて来てるように思えて仕方がないんですけれども、幼児さんはトロバドールとジョングルールを要するに同じ業界というか、同じような活動に従事する人間であって、ただ社会的な身分が違うだけというような見方をしてません?トロバドールってのはオック語の抒情詩を書いた(まァ詩だけじゃなくてメロディーもですけど)連中のことであって、一般に詩は凝りに凝ったものですし、近代的な感覚で言うならば芸術家の一種ですよ。ジョングルールの方は要するに芸能人ですからね。身分が違うと言うのは、別に同じような連中だけれども両者の間には社会的に身分の差があった、ということじゃなくて、文化的な意味においても別の種類の活動だったんですよ。確かに、まずもって貴族階級であればジョングルールであることは不可能ですし、逆も同様です。それに対して、トロバドールは貴族か、あるいは少なくとも宮廷社会に出入りした人間であったわけですが、それは別に出身階級がどうのこうのというだけの問題ではなく、作る作品の種類からしても(テーマといい、技巧といい)一般にトロバドール詩に民衆的な要素は含まれていません。だからジョングルールにはいろんなヤツがいて、中にはトロバドールの誰かのお抱えになってたのもいたみたいですけれども、それにしたところで別の人種であったことにかわりはないと思いますよ。
それに、もうひとつ、やはりシャンソン・ド・ジェストとトロバドールというのはごっちゃにしない方がイイですよ。シャンソン・ド・ジェストの方は、ごく古い時代にはたぶん戦士階級も一般民衆もともに熱狂したんだろうと思いますが(例えば第一次十字軍の頃とか)、トロバドールが民衆のものであったことはたぶん一度もないだろうと思います。
ただ、時代が変わり、土地が変わり、と言うかこの両方が変わった場合には、トロバドールの歌も、創られた環境において持っていたのとはずいぶん違った受け取り方をされたものと考えられています。それが例えばrazosとかvidasというヤツになって現れているわけでして、先に幼児さんが言っていたベルナルト・デ・ヴェンタドルンのパン焼き説になって出てきているわけです。

蔡文姫(サボリ気味管理人)(7/20-22:06)No.108
すみません、横からチャチャを入れます。
 それでは、ローランの歌を歌ったのはトロバドールではないのですよね?では、どういった人達が洗練し、流布に一役買ったのでしょう?

Ludovico(7/22-17:39)No.110
いや、実に鋭いご質問です。もちろん、トロバドールでなかったことは言うまでもないのですが、では誰だったのかとなると、これは大問題でして、テュロルドが誰で、一体何をしたのかということを含めて、19世紀以来すごい議論が続いてきました。口承文学である以上、数多くのジョングルールが関与したことは間違いないでしょうが、それにしても、我々の手にすることのできる『ロランの歌』に関しては、いずれにせよ最終的に文字に書かれた形でしか残っていないわけで、だからこそ幼児氏のように、そこのところがどうだったのかを追求する研究者が現れるのだろうと思います。

幼児(7/28-17:04)No.112
3つ上のLudovicoさんへレス。
シャンソン・ド・ジェストとトゥルバドゥールを並べて語るのはようそうという提案には賛成です。しゃべりにくくてしょうがない。というのも、「トゥルヴェール」と言えばもう少しすっきりするを、話の流れで、無理に「トゥルバドゥール」と言わなければならなくなっているところがありますので。
ただ、トゥルバドゥールの凝りに凝った詩というのも、その凝っていることを理由に、「故に芸術なり」と言わせるにはしんどいところがあると思います。「形式において極めて複雑かつ高度、しかし内容的にはかなりワンパターン、すでに何百遍も言われたことの繰り返し(つまりは無内容)というのが、彼らの作った詩の大きな特徴であるという意見も聞かれることですし。私の見たところでも、たしかにそういったことを感じさせる作品は多くあります。いかにも「芸」であります。(この「芸」は、はたして「芸術」の「芸」なのか、あるいは「芸能」の「芸」なのか?問題ですね。)

Ludovico(7/30-17:28)No.115
あのネ、幼児さんの場合はたまたま人柄を存じ上げてるので、これが揚げ足取りでないことはよく分かるんですけどね、あたしゃア別にトロバドールの歌は貴族がやってた高級な芸術だけど、シャンソン・ド・ジェストは俗衆向けの低級なエンターテインメントだ、とか何とかその手のことを言ってるんじゃないんですよ。ンなことくらい分かれよ。芸術家と芸能人の違いのハナシだって、こりゃあひとつの例え話ですよ。それにまた、内容が濃いから芸術なのか、それとも形式が凝ってるから芸術なのか、なんて美学上の議論をしてるわけでもなければ、トロバドールの歌と『ロランの歌』のどちらが上か下か、てなことを言ってるわけでもありません。私は両方とも好きですし、好きだからこそ、創られた当初はどんな連中がどんな雰囲気の中で、一体だれに聴かせることを意識して歌い、それが誰によってどんな風に鑑賞されていたのか、といったことに興味があるだけですよ。そういうことをいろいろ知れば知るほど、もともと好きだった芸術作品がもっとよく分かるようになって鑑賞の楽しみも深まりますからね。
だから、もっとそういう方向で有益な話をしましょうや。つまりね、中世の歌や文学についてはそもそも分かってることがすごく少ないわけですよ。だから、その少ない情報を増やそうという方向へ行こうとせずに、少ないままで、その少ない情報をえらく抽象的な議論の材料にだけしていると、議論はやっぱり不毛ものに終わってしまうんですよ。
そういう意味で、例えばトロバドールとトゥルヴェールの違い、なんていうのはまんざら意味がなくもない問題のような気がしますけど、どーですか?(トゥルバドゥールっていうのは単にトロバドールのフランス語なまりの発音でしょうから、どうでもイイですけど。)

蔡文姫(サボリ気味管理人)(7/30-18:58)No.117
……更に横やりすみません。
 白水社のフランス中世文学集で、南仏詩人(トルバドゥール)の解題で、「トルバドゥール=(オック語で)トロバドール」となっていますが、十一世紀頃当時では日常的に現代仏語に近い仏語が話されていたのか、オック語等の古仏語が話されていたのかどちらだったのでしょう。
 外語の日本語表記には大きな「ゆれ」があり、これが正しいとは言いきれないと思いますが、参考までに教えていただけると嬉しいです。
 また、同書に「トルバドゥールがジョングルールに格下げされたりジョングルールからトルバドゥールになる例もあった」と書かれていますが、最初から身分違いとするとこの記述の真偽は如何なのでしょう?

蔡文姫(サボリ気味管理人)(7/30-20:07)No.118
それと。幼児様が言われる、「形式において極めて複雑かつ高度、しかし内容的にはかなりワンパターン、すでに何百遍も言われたことの繰り返し(つまりは無内容)」については、古い物語を素材にして、内容よりも「言葉遊び」的な風合いを感じます。例えば、(中国好きですので例えが悪いのですが)三国志を何人もの作家が書いているように。小説それぞれに主旨が違っていてもストーリーは決まっているので、如何に表現するか脚色するかが勝負となるわけですよね。
 形骸化した形式的な表現は「詩形式」だから産まれた技術だと思います。俳句や漢詩などの定型詩と通じる部分があるような無いような……

Ludovico(7/30-21:40)No.119
横やりだなんて、そんな、滅相もありません。中世のフランスの言語ですが、普通大きく南北に分けて、まァざっとロワール河あたりを境にして、北では北仏語(オイル語、古フランス語)が、そして南では南仏語(オック語、古プロヴァンス語)が使われていた、ということになってます。現在のフランス語はもちろん北仏語の子孫でして、オイルとかオックとかいうのは英語のyesに当たる言葉なんですが、このうちのオイルが段々と変化して現在のウィになったというわけです。ちなみにオック語とかオイル語とかいう呼び名を発明したのはダンテです。が、今このページで問題になっているような文学作品に関して言いますと、『ロランの歌』のようなシャンソン・ド・ジェストは北仏語で書かれており、トロバドールの詩は南仏語です。もっとも例外的には南仏語のシャンソン・ド・ジェストも残っているようですけれども。で、トロバドールのほうですが、少し時代が下りますと、彼らの作っていたようなラブ・ソングがやがて北仏でも作られるようになります。そこで、オック語ではなくオイル語でそうした歌を作った人のことを、トロバドールと区別してトルヴェールと呼んでいるわけです。また、トロバドール、トルヴェールという用語はそれ自体、それぞれオック語とオイル語のものです。それに対して現代フランス語ではトロバドールのことをトゥルバドゥールと言いますので、フランス語で書かれた中世文学関係の本にはトロバドールではなく、こういう表記で出てくることになるわけです。
白水社の「フランス中世文学集1」の解題にはおっしゃる通りの記述が確かにありますね。でも、この意味はよく分かりません。紙数に限りがあったせいもあろうかとは思いますが、かなり乱暴な記述だと言わざるを得ません。トロバドールたちの伝記というのは、この白水社の本にも翻訳されており、解題にも若干の説明がありますが、ずっと後の時代になって、しかもイタリアあたりで作られたものでして、その内容はまったくの捏造であったと考えられています。ですから、政治的に大変な重要人物であったようなケースを除くと、個々のトロバドールがどういう人だったのかを特定するのは非常に困難なようです。ともあれ、ジョングルールとトロバドールの違いについて、ご質問で取り上げられた白水社の本の例の解題の記述の元になったのは、たぶんこのページでも話題に上っていたアンリ・ダヴァンソン著『トゥルバドゥール』(筑摩叢書198)の中の一章「ジョングルールとトゥルバドゥール」です。ともあれ、個々のトロバドールの身分がどうであったにせよ、トロバドール詩の生産・消費の舞台となったのは貴族の宮廷であったと考えられています。(ちなみに、私がこだわっていたのはこの点です。)
また、西洋の抒情詩というのは、後の時代のもっと発達したものの場合でも、基本的に管理人さんの言われるように言葉遊び的な性格が強く、語彙は限定されていて、内容は確かにワンパターン(意外性がない、という意味において)であるように私も思います。ですから、内容に関しても、ほんのわずかな、微妙な違いを見つけ出して味わうのが正しい読み方ではないかと思っています。いずれにせよ、抒情詩というのは翻訳だけでは十分な鑑賞が困難だろうと思われます。

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武勲詩使用上の注意 投稿者:幼児 投稿日:2002/06/18(Tue) 03:37 No.88  <HOME>
シャンソン・ド・ジェスト(『ロラン』等の武勲詩)がこういう風に歌われていた、こういう用途に使われていた、こういう具合に書きとめられたとかいった証言記録どこかにありませんかね。どんな些細なものでも構いません。

幼児(6/22-08:05)No.89
「証言記録」となるとやはりちょっときついか・・・。欧州の研究者連全員あつめても、それでもろくに「決め手」となるものが見つかっていないようなあたりの話ですからね。
この際、皆さんの考え、心づもり、そのレベルのもので構いません。何か書いてやってください。

蔡文姫(6/24-00:59)No.90
トルヴァドゥールの出現が十一世紀後半。ローランの歌とシャンソン・ド・ジェストと、トルヴァドゥールとは、よく関連づけて記事にされているように思います。
 吟遊詩人達は各地を廻る旅回りの歌い手と、貴族に招かれてサロン詠う歌い手に分けられていたようです。最も、その分類の仕方は正確ではなく、サロンでも市井でもどちらでも歌う吟遊詩人も中にはいたそうです。

 話は変わりますが、京劇。京劇は、かつて、識字率が低い民衆に政府の法令や方針を理解させるために使われたそうです。同時に、その政府に対するレジスタンス的な芝居もあり、政治的に翻弄された歴史があったと聞きました。
 そのあたり、参考になるかも知れません。

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バラグエ 投稿者:蔡文姫 投稿日:2002/01/03(Thu) 01:44 No.85 
バラグエの位置についてのメモ。
 http://www.asahi-net.or.jp/~yg4t-hmmr/
 比較建築研究会に中世アンダルシアの地図があり、地図帳と照らし合わせると、ピレネー山脈の山麓地帯にあったらしい。もしかしたら、想像しているよりももっと標高は高かったかも知れない。
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